嘗て空に墜ち消えた少女が流れ着いたのは、望む姿だけを、見せたい姿だけを見せられる世界。 ある者はあどけない少女に姿を粧し ある者は流麗なる青年に魂を移し、 またある者は美学を貫くキカイの鎧を纏い、 いつか見た悪夢を忘れるように、やさしい世界に身を委ねました。 ここで、彼女は人間であることをずっと忘れていました。 しかし、なぜでしょう。 時が経つほど、誰かに近づけば近づくほど、 嘗て悪夢で見た影が重なって見えるのです。 少女は恐ろしくなり、誰かと出会うことを避け始めました。 それは彼女に限ったことではありません。 あれほど騒がしかった世界を、静寂が覆い始めました。 世界が静かになるにつれ、不穏な誘惑が流布するようになりました。 「流行りの甘いθはいかがかね」 θが何を起こすのか、何を奪うのか。 少女は知らなかったわけではありません。 それでも、少女は躊躇いなく手を伸ばしました。 θを飲み込み空を見上げると、黒い雲が世界を覆い、 ザアと降り出した雨は地を海に沈め、鯨が空を泳ぎました。 少女は叫びます。 「ここはやさしい世界!」 「人間なんてはじめからどこにもいなかったんです!」 少女は怒りも呪いも痛みも全て言の葉に乗せて放ちました。 その瞳から影は消え、世界だけが映っていました。